三浪リーマンの人生とサブカルとライフスタイルブログ

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一年たちました

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前回記事を書いてからあっという間に一年が経過しました。久方ぶりに更新してみます。一年前はまだ世界が今のようにコロナの影響下ではなかったのですね。コロナ前とコロナ後、ずいぶん生活も変わってしまいましたね。お元気でしょうか?

 

田舎に住んでいるので、あまり人混みとは無縁ですが、たまに都会に行くと、歩いている人ほとんどがマスクしていて、これは一体何なんだろう?、異様な光景だなと今でも思います。いまさらですが。花粉症シーズンでもこんなにマスクしていないだろうに。

 

GWもお盆も、そしてきって年末年始もWITHコロナな生活を強いられるのでしょう。遠くの友人も訪ねてこず、古い友人は故郷に帰ってこず、オンライン飲み会してみたところで、やはり物足りず。こんな日々がいつまで続くのかと辟易します。人生の楽しみの一部が失われましたね。

 

株価は上がってますが、一般庶民の生活は苦しいようで、特に飲食業や医療従事者の方々は非常に厳しい状況なのでしょう。

 

自殺者が増えているのもつらく、胸を塞ぐ思いです。若い女性の自殺が増えているニュース、嫌ですね。生きているのがつらいなんて。令和の時代に。経済的な理由が多いといいますから、国や地方自治体がなんとかしないともう無理じゃないですかね。人のやさしさだけじゃ、もうどうにもならんくないですか。

 

とにもかくにも、コロナ早く収束するといいなぁ。声援のあるプロレスが早く戻ってきますように。今年の漢字は「疫」かなぁ。いやだなあ。

 

 

ぼーっとして考えている

ぼーっと、部屋の中で椅子に座っています。特に、これという考えが頭にうかぶわけでもなく、なんとなくぼーっとしています。良く言えば、頭がクリア。特に何かを悩んでいるわけでも考えているわけでもない状態。悪く言えば、深く何かを考えているわけではない。ただ時間を浪費しているようなもの。

 

本を読まなくなったことも原因だろうか。これまでは常に何かしら読書していたからなのか、頭の中が一杯だった。空き容量が少ない感じ。どっちがよいのだろうか。なんとなく、バカになった感じがするのです。

 

ぼーっとするのは悪いことじゃない。読書しているときはぼーっとしていると、あれこれ考えが浮かんでは消えていたのですが、今は本当にただぼーっとしているだけ。何か考えようと思ってみるのだけれど、浮かんでくるのはせいぜい、靴下とパンツを買わなければならないこと。クリスマスケーキはどこで買ったらいいだろうか。墓参りはいつごろ行ったらよいだろうか。そんな類のことです。

 

人間関係で悩みがあるとか、借金をしているとか、そういう状態であれば、こんなふうにはならないのです。これがベストの状態なのか。理想形なのか。今のところは全然わかりません。ただ、家族関係や金銭問題、あと健康問題や職場の人間関係。このあたりの問題がひとつでも悩んでいると、ぼーっとしたときに必ず頭に浮かんでしまうので、常に少しずつ問題解決していくといいのかもしれない。なるべくこじれないうちに。

 

インディアン・チルというプレイリストをSpotifyで聴いているのですが、この音楽の影響か?レミオロメンの「粉雪」が聴きたい季節が近づいてまいりました。

 

外寒いね

 

今宵は寒さが厳しいですね。よく冷えます。今期初めて車のフロントガラスが凍りました。もう12月ですね。年末ですね。外寒いですね。

 

寒くなるとメンタル的に厳しくなりますね。やはり、日照時間は人間のメンタルへの影響があるような気がします。朝は暗いし、暗くなるのは早いし、日の光を浴びている量が他の季節と比較して少ない。きっと脳内で通常分泌されるであろう何かしらの物質が足りていないのか。寂しい気持ちが隠せません。

 

冬は長いです。この長い冬に力をため込んで、耐えて春に備えなければなりません。

 

春になればきっといいことがありますよ。きっと楽しいことがたくさんあると思います。春の陽気ってのにはそんな力があるような気がする。だから、冬は力をためつつ耐えしのぐ。年末の冬休みももうすぐですしね。

 

来年は自然災害が少ない一年であればいいな。

 

全力子育て。

 

育児ってのは大変ですね。ワンオペ育児は特に大変だと思う。不安だと思うし、赤ちゃんは目を離すことはできないし、泣いてしまうし。育児は全力使ってしまう。あっというまに一日終わってしまうし、時間が経つのが速いですね。

 

赤ちゃんが生まれてから、自分の時間というのはかなり減りましたね。映画を見たり、本を読んだりする時間はなくなりました。子育てというのは、自分の時間を犠牲にして行うものなのだと実感。子育てして一日終わる。しかし、それでいいんです。全力育児です。これが幸せなのです。自分も両親の貴重で楽しい20代や30代の時間を奪って今があるんだと、泣けてきます。

 

私はそこそこいい歳で、そこそこオジサンなので、いいのですが。若い夫婦の場合、大変だろうなと。というのも、若いとまだ遊びたいでしょう。お友達とお酒のみにも行きたいでしょう。旅行も行きたいだろうし、おしゃれもしたいでしょう。若いころの時間をすべて子育てに注ぐことに抵抗があるんではなかろうか?育児のせいで遊べないと感じるんではなかろうか。親になると若い人でも精神的に成熟していくものなのでしょうか。もう遊ばなくてもよくなるんだろうか。最近そんなことを少し考えてます。

 

ま、20代の子育て夫婦なら、30代になれば子育てもひと段落して遊べるからいいのか。いずれにせよ、少し辛くても、遊べない不満があっても、赤ちゃんに八つ当たりしたり、虐待するのだけは勘弁ですね。赤ちゃんに罪はないし、祝福されて生まれてきたのですからね。理屈じゃなくて、本能で守って育ててあげましょう。人間も動物ですもの。

 

 

 

愛犬はきっと幸せだったよ

 

今年の春、16年間一緒に暮らした愛犬が天国に旅立ちました。最後は心臓を悪くして、3年間ほど闘病生活を送ったのちに、亡くなりました。非常に残念で悲しくて、今思い出しても辛いんだけど、今年の出来事だしちょっと綴っておきたい。

 

一般的に、犬で16年間生きたら十分長生きだと思うんだけれど、悔やまれるのは最後の2~3年間あまり側にいてあげられなかったことです。心臓が悪くなってからは、散歩も行けなくなり、家に一人でいる時間が長くなって、さぞ寂しかっただろうな。

 

犬と同じ布団で眠ることに抵抗があったり、批判的な考えの人もいると思うけど、私は長年愛犬と一緒の布団で寝起きをしてたのです。最後の数年は、私が家を離れてしまったこともあって、一緒に寝てあげられなかったな。本人はどう思ってるかわからないんだけど、なんとなく可愛そうなことをしたな。すまなかったな。こんなことなら、あと少し一緒に時間を過ごせればよかったな。あんまり遊んであげられなかったね。

 

よく愛犬を亡くした人が「もう悲しい思いはしたくないので当分犬は飼いません」というのを聞くけど、少し違うと思うのです。犬は言葉を話さないので、わかりませんけど、亡くなったときに「悲しい」と思ってもらえたら、その犬は幸せだったのではないかと推測されるのです。そして、そう思いたい私の願望でもあるのです。

 

今でもたくさんの犬が捨てられたりしているみたいだし、そういう飼い主に比べれば、ちゃんと最後まで面倒見て、涙を流して悲しんでくれる飼い主と一緒に過ごせた犬はきっと幸せなんだと思う。だから、気持ちが落ち着いたらまた犬を飼ってみたらいいと思う。その犬はあなたと過ごせたらきっと幸せだから。

 

政治にのぞむものは

 

令和新撰組が人気だそうです。といっても少し昔の話題かもしれませんが。政治に特に詳しいわけでも関心があるわけではないんですけど、そういう既存とは違う政党が人気というのは、みんな何か漠然と変化を起こしてくれることを期待していると思います。そして、現状の自分の環境または政治に対して不満が少なからずあるのでしょう。

 

思うに、政権が変われば、自分の周囲も良い方向に変わるんじゃないかという希望があるんじゃないかと。逆に言えば、自分の力では閉塞感?とでもいうべき状況はもう打破できないということなのだろうか。政権が変わらなければ、将来的に日本または自分がどうなるかは未来のことなのでわからないのですが、良くても現状維持かなとは思ってます。人によってはそれで満足だろうし、それは人によりますね。

 

もし政権が変われば、今より幸せになれるんじゃないかという淡い期待のようなものがあるのかもしれません。それくらい追い詰められているし、閉塞感あるし、社会はそういう場所になってしまったのかもしれません。裕福で幸せな人もいる一方で、貧しさに苦しんでいる人も相当数いるだろうし。本当にこのままでいいのかは疑問ですね。テクノロジーは進歩して、いろいろと恩恵を受けている部分もあるのだけど、少し昔と比べてこの国と我々は良くなったのだろうか。幸せになったのだろうか。もう、スマホやWi-Fiなしの時代には戻れないし、動画配信やサブスクなければ辛いのだけど、満場一致で良くなったとは言えなさそうですね。

 

他力本願と言われるかもしれないけど、政治に期待している部分もあるのですよ。それくらい変化を求めている人は多いんじゃないでしょうか。良い方向への変化をね。みんなが安心して幸せに暮らせる法律と政策をぜひお願いしたいものです。

 

沈黙も会話

 

あまり面識のない人や初対面の人との飲み会が苦手です。なんとなく行く前から気が滅入るといいますか、乗り気になれません。昔馴染みや何回か飲んだことがある人であれば、なんとかなるのですが。

何を話せばいいかわからなくなるのです。会話は質問しないとよい流れはできないと思うのですが、質問したいことがないのです。無難に天気の話をするのも、なんだかいかにもな感じがしますし。やはり相手に対しての興味が薄いのでしょうか。いや、違うのです、本当は聞きたいことはあるのです。どんな音楽が好きか?どんな映画が好きか?どんな本を読んでいるか?こういうことが気になるのです。質問してみたいのです。

 

しかし、こんなこと聞いてもよいのだろうか。興味がなかったらどうしよう。と悩んでしまいます。本当は誰でも自分の興味があるテーマ・カテゴリーの話題について質問してほしいはずなのです。年上の社会人であればやはり仕事の話題でしょうか。でも、私は飲み会で仕事の話をするのがあまり好きじゃないのです。そして、質問したいほどビジネスに興味がないのです。

 

相手が質問してくれる人であればいいのですが、そういうタイプでない場合は、お互い沈黙モードに突入します。人によってはこれはなかなか気まずいと思うのです。しかし、何かの本で沈黙も会話の一つであると読みました。衝撃でした。沈黙しててもいいのか、気まずいと思っているのは自分だけかもしれない。相手はなんとも思っていないかもしれない。沈黙というのも一つの会話なのだから、それはそれで楽しめばいいのだ。酒と料理を味わえばいいのだ。ガヤガヤうるさいよりは、静かなほうが好きなので、性分にあっているのかもしれません。そのうち、お酒も進んで酔っ払えば少しは会話も生まれてくるでしょう。

 

最近では、沈黙してもまぁいいかぐらいに考えています。立派な会話なんだから、その酒席に赴いただけで合格点です。司会者でもインタビュアーでも芸人でもないので、初対面の人と楽しい会話なんかそうそうできませんし、初対面で構築できる人間関係なんてたかがしれてますよ。

 

 

読書の意義について

 

読書の意義となると、作者の体験を疑似体験できるとか、自分の知らない業界についてを知ることができるとか、新しい価値観を得ることができるとか、そういった類のことになると思います。読書は良いことだらけです。書籍の値段は安いし、自己投資としてはかなりコスパに優れていると思います。私は恥ずかしながら、30代になるまではほとんど読書をしてこなかったのです。

 

読書をするキッカケになった本はたしか「宝くじで一億円あたった人の末路」とかいう新書だったと思います。暇つぶしに何げなく書店で手に取ったのか、新聞の書評で面白そうな印象を受けたのか、定かではありません。多分その本に書かれていたと思いますが、その本を読んで私はマイホーム派から賃貸派に転向したのでした。もちろんマイホームにはメリットもありますし、賃貸にもデメリットもあります。ただ、その本を読むまでは私は完全なマイホーム購入思想に洗脳されておりました。社会人になったらマイホームを購入するの当たり前だし、住宅ローンで借金するの当たり前だし、マイホームをもって初めて一人前である。そんな思想に洗脳されていた私は、かなりの衝撃を受けたのです。あ、別に一生賃貸でもいいんだ。借金してマイホーム買わなくてもいいんだと。

 

このように、一冊の本が、洗脳から私を解放してくれたのです。この本を読んでいなかったら私は今頃何千万円という住宅ローンを抱えていたかもしれません。今考えるとこの本の影響は大きいなと。ここから、読書したほうが人生得なのではないかと考えるようになりました。人の知らない情報を知ることができたり、新しい価値観に出会える、読書をしないのは人生の損失だと考えるようになったのです。

 

そこから2年間ほどかなり乱読した記憶があります。とにかく知らない情報が知りたい、そして新しい価値観を知りたい、この世界の真理的なものが知りたい、それを知っていく行為が面白かったんですね。小説みたいな物は読まなかったのですが、きっと小説にもそういったニーズに応えてくれる作品もあるのではないかと思うのです。私は出会うことができておりませんが。小説仕立ての自己啓発本みたいなものはありますよね。

 

3年目くらいから、頭打ちになりました。いくら本を読んでもこれまでのように衝撃を受けるような事は書いていなくて、どの本を読んでもどこかで読んだことがある、既読感とでもいうのでしょうか。そんな感情を覚えるのでした。本が自分に与える影響が少なくなったのです。やはりある程度、読書をすると新たにヒットする確率は減りますね。序盤は読むもの全てが新しく影響を受けていたのですが。

 

世界が自分に隠していたもの、もしくは隠されていたものが見えたことによって、かなり世界や人生の見え方が変わってきたのは事実です。今は読書してもそれほど影響を受けなくなってきたので、自分の中でなにか確立されたものができたのかもしれません。