三浪リーマンの人生とサブカルとライフスタイルブログ

人生とサブカルとライフスタイルとブログ運営についてのブログです。

キラリと光る一文があればいい。

 

気楽に書くことが今は大事かなと思ってます。昔は違うこと言ってたかもしれませんが、過去の記事を見ていないのでなんともいえません。毎回毎回完璧な記事をかけるはずもなく、そんなことプロでも難しいですよね。ガラクタみたいな記事が多いかもしれませんが、たまにいい記事かけるときもあって、そんなときはやはり書いていて楽しいですね。これは前に書いたかもしれませんが、☆の数や、ブックマークをたくさんもらうことが楽しいっていうのがあっても当然いいと思うんですけど、それだけとは限りませんよね。☆が一個もつかなくても、書いていて楽しい記事はあるし、自分なりによく書けたなと思えるものもあるんです。バズったら、それはそれで楽しいですけどね。

 

とにかく、その時々に書きたいことを書いてみればいいのかなと。キラリと光る名作もあるでしょうし、駄作もあるでしょう。どちらにしても、少し時間がたった後で、修正することもできるわけですし。それよりもストレスフリーで書くことが楽しいというのが一番大事だし、自分の価値観で書いていいと思うのですよ。間違ったこと書いても別にいいと思うし、そもそもそれが本当に正しいのか間違っているかなんて、記事の主題によってはわかりませんもんね。根も葉もないうわさ話や、間違った医療知識みたいなものを拡散してしまったら当然マズいと思いますけどね。他人に迷惑をかけなければ、この問題について自分はどう思うというのは問題にならないんじゃないかと思います。

 

自分が日常に漠然と感じている考えや感情を文章として表現できたとき、これが自分にとってはいい記事ですね。これがなかなか難しいのですけど。でも、現時点で思っていることを記録として残せることは自分としては価値があることだと思っているのです。タイムカプセルみたいに10年後に見直したら楽しそうですよね。もう、ここまで来ると個人的趣味といった感じですね。10年ブログ続けるのは簡単じゃないかもしれないけど頑張ってみたいものです。

 

ダラダラと文章を連ねた記事だとしても、その一文にキラリと光る名文があれば、その記事はすごく価値がありますよね。それだけでいいと思うのです。実際、自分が読書するときでも、たった一文でも名分があれば、その本の価値はあって、捨てない本リストに入れますからね。たった一文でも何か響く文章があればそれでいいのです。自分も一つの記事に一文でいいから本質を突いたキラリと光る文章を書けるようにしたいものです。

言葉は力だな

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言葉は力だな。人を傷つけたり、救ってみたり。言葉には力があるんだな。なるべく、シンプルでわかりやすい表現じゃないと、伝わらないよな。だからシンプルで力強い表現が好きだな。的確に表現するために、複雑な表現や飲み込みにくい表現をしなければならないこともあるとは思うけど。

 

自分しかわからない言葉だと、伝わらないよな。難解な表現だと頭良さそうに見えるんだけど、伝わらないと意味ないよな。それとも、そもそも伝わることを意図していない?もしくは、自分と同じレベルまで成長しろということいわれてる?

 

言葉が世界を作ってる感じがするね。

 

言葉はすぐ消えてしまうから、頭に浮かんだら捕まえておかないといけないんだな。

 

言葉を知ると、思考の領域が広がるから、言葉はどんどん覚えたほうがいいんだって。たしかに、なにか概念とか説明するのには、語彙力が必要だし。語彙力がないとどーもうまく説明できないですもん。単語の積み重ねで、概念や物事を説明しているんだもんな。本を読んでも言葉覚えないと思う。アウトプットしてはじめて使える言葉になるよね。

 

 

人にやさしく

 

金曜日の夜。足早に家路につくサラリーマンもいれば、歓楽街に繰り出す人もいる。そんな花の金曜日。金曜日は好きだ。一週間頑張った(耐えた)、そしてここからは自分の時間だと思える瞬間が嬉しい。定時を過ぎれば、会社に拘束されることはない、明日は休みなので、思う存分趣味に没頭できる。映画を見たり、本を読んだり、お酒を飲んだり、買い物をしたり。そこそこ頑張った平日があるから、その分週末は価値がある。週末の始まりのために、なんとか一週間がんばり、そしてまた一週間が始まり、週末まで耐えしのぐ。

 

月曜日はつらいけど、火曜日あたりからは感覚がマヒしているのでもう大丈夫。つらくない。仕事なんてこの程度のもんだよ。気楽にいきたいもんです。

 

たいていの悩みは人間関係だという。それは自分と相成れない人がいるからだろう。嫌な奴や馬があわない奴はどこにでもいる。なんとなく苦手な人たちもいる。好きな人たちばかりに囲まれている働いたり生きていければ、最高なんだろうけど。そうはなかなかいかないもんですね。一方で憎まれ役が必要な場合や環境ももちろんあるんだと思う。適切かわからないけど、必要悪ということだ。

 

どんな人にも優しく接したいと思うのである。丁寧に接したいと思うのである。ケンカ腰は良くないね、たいして偉くもないんだから、他人を尊重して穏やかに接したいものであります。そうすれば、世界は少しだけ良くなるのかもしれない。金曜日の夜はなぜかそんな風に思える。俺は明日も仕事だけど。

 

 

 

大きく負けないで、小さな勝ちと引き分けを積み重ねることの重要性

 

冬に近づくにつれて黄昏ますね。物悲しいですね。

 

漠然と「何者にもなれない不安感」を感じます。他人に認められなければならない、才能を認められて有名にならなければならない、でもそうではない自分に対しての不安感というものはありますね。この先、自分は何者にもなれなかったらどうしよう。という不安。不安だから闇雲に方々に手を出して、中途半端になる。

 

たいていの人において、そんな都合の良い望みはかなえられないでしょう。では、なぜ自分だけその望みが叶えられると思うんだろうか。これまた根拠のない漠然とした自信。自信はいつ失うんだろうか。挑戦して敗北したら?

 

なるべく負けないように失敗しないように生活している。それを続けている。大きく勝つことはないけど、大きく負けることはない。リスクはとらない。挑戦しない。だから、成功もしない。

 

では、こんな人生はダメ?敗北?

 

そうは思わない。大きく負けない。小さな勝ちや引き分けを積み重ねる。結果、勝ち点を重ねて、リーグ戦一位にはなれないかもしれないけど、リーグ戦二位や三位で予選通過して、決勝トーナメントに進めるかもしれない。悪くない。これは案外悪くない。

 

とこのごろ思う。地道に勝ち点を積み重ねていけば、多少リスクをとった勝負はありかと思うけど。

 

立会出産して良かったなと

 

先日、第一子が生まれた。昔は自分に子供ができるなんて想像もしなかった。奥様は出産までのマタニティライフなかなか大変だったと思います。つわりもあるし、お酒も飲めませんしね。実際、妊婦になってみたいと本当の大変さを100%理解することは難しいでしょうね。夫はサポートするぐらいしかできません。本当にお疲れさまでしたと言いたいですね。

 

で、いざ出産ということで、立会出産を選びました。当初は、立会をするつもりはなかったのですが、奥様からの要望もありまして。立会を考えていなかった理由は、単純に出産というものが怖かったのです。血もでますし、奥様の苦しそうなところ見ていられる自信がなかったのです。臆病者です。ずるいですね。楽をしようとしていた。

 

しかし、奥様から分娩室に入手できるのは家族だけなんだそうです。自分が一緒にいることで少しでも安心できるのならと立会を決めました。

 

で、立会しまして。詳細をことこまかに書くつもりはないのですが、結論からいうととにかく泣きました。よく「出産の感動」とか「奇跡の瞬間」で感動の涙を流す人がいると聞いていましたが、僕の場合は少し違うのでした。

 

まずは、奥様の苦しそうなところがかわいそうで、見ているのが本当につらかった。助けてあげたいけど、楽にしてあげたいけど、どうすることもできないこの無力感。自然と涙が止まらなくなっていましたね。見ているのが本当につらかった。

 

もうひとつ泣いた理由があって、それは自分が生まれるとき、母親もこんなにつらい思いをして生んでくれたんだなと。母親への感謝で涙があふれましたね。もう、自然と母親へに対しての尊敬と感謝があふれてきましたよ。

 

そして、無事赤ちゃんが生まれたとき、やはり嬉しかったのです、生まれたことに生まれてきたことに感謝し、祝福したのです。自分も生まれたとき少なくとも両親には祝福されて生まれてきたのかと思うと、もう涙が止まらないのでした。母親ありがとうと。

 

今になって思うと立会をして本当によかった。もちろん男性には血への苦手意識もあるだろうし、躊躇したり迷ったりすると思うのですけど、得るもののほうが多いので僕はやったほうがいいと思いますね。より奥様を大事にしたいと思えるでしょうし、価値観や人生観も変わるのではないでしょうか。本を読んだり、映像で見てもダメですね。こればかりは実際に立ち会ってみないと意味が理解できないと思われます。

 

 

 

オリジナリティとか独自性というプレッシャー

 

オリジナリティとか独自性がなきゃいけないというプレッシャーあると思います。特にブログとかやっているとわかると思いますが、バズったり人気が出るためには、誰も発言していない独自性のある発信をしなければならないとか、そんな風に思うこともあるのではないでしょうか。

 

ブログやらユーチューバーの動画見ていると、これはすごいオリジナリティだ!こいつスゲエ!ってなることもあると思うんですけど、案外元ネタがあったり、既に発信された情報を加工しただけなんてこともありますね。なんかの本に書いてあることをそのまま転用したりね。そういうのを否定しようとは全く思わなくて、むしろ良質な情報を捕まえるセンスであったり、良いものを集めるのも才能というかオリジナリティだと思うのですよ。もしろん、過度に神格化したり、ありがたがるする必要は全くないと思うのだけど。

 

キュレーターとかキュレーションサービスだって、そういった積み重ねの上でオリジナリティや価値を出しているわけですもんね。DJもそうですよね。オリジナル曲を作成しているわけじゃないけど、イイ曲を最高の曲順でならべてセットリストを作って独創性や付加価値を出して差別化していますよね。

 

「コイツいいこと言ってんな~」と思う人の発言も、本に書いてあっただけってことも良くあるだろうし。本に書いてあった考えを、さも自分が考え出した概念のように語る人もいるでしょう。私が書く考えも、きっといつか読んだ本に書いてあったことである可能性もありますよ。でも、自分がインプットした情報を加味して、アウトプットした考えはオリジナリティあると思いますよ。自分と全く同じ本ばかりを読んで、全く同じ体験をして、全く同じものに影響を受けてきた人なんていないですもん。だから、同じ本に書いてあった考えや価値観を語っても少しずつみんな違うはずなんですよね。それぞれがアウトプットするものは紛れもなくオリジナルなものだし、ただしそれが目立つものだったり、人に認められるものであるかは別問題なんだけど。

 

でも、ある事象について99%の人が良いというものを、悪いと言えば、目立つことは目立つし、独創性があるようには見えるでしょうね。また、顔出ししたり、実名で発信しても差別化にはなるけど、リスクも負いますよね。あとは、定番ですが、一見関係ないものを組み合わせるというのも良く聞く話ですね。例えば、医者でプロ格闘家とかね。医者はたくさんいるけど、プロ格闘家の医者となるとかなり差別化できるかと。

 

結局のところ、普通に生きているだけでオリジナリティはあるんだから、あんまり深く考えないことにした。というのが今日の結論です。

 

 

 

 

 

 

 

 

継続する力

 


いろんな才能があると思うんですけど、「継続できる」ってのはなかなか強力な才能ではないかと最近思います。自分には人に誇れるような、「派手な」才能はないと思っているんですが、「継続できる」ってのはあるのかなと。で、「継続」って結構バカにできないぞと。継続することが苦手な人もやはりいるようですし。

 

よく「継続は力なり」といいますけど、これ本当なのかもしれない。毎日積み上げる一歩はたいしたことないんですけど、これが1年、2年、10年となってくるとけっこうインパクトがあります。ジワジワと効いてきます。ちょっとやそっとじゃ追いつけない距離まで到達している場合もあるし、簡単には敵わないレベルになってます。

 

例えば子供のころから楽器やってる人には、簡単には敵いませんね。やはり同じくらいの時間の投資が必要なんですよね。昔から本を読んでいる人には、それなりの知識の蓄積があるし、これもやはり継続の賜物!

 

続けよう。できる範囲で。やっていて楽しいことを。嫌じゃないことを。戦うためには継続が必要だ。継続したら武器になるかもしれないし、長所になるかもしれないし。

 

でも、続けるのは結構辛い時もあります。楽なほうに流れたくなるし、放り出したくなることもありますよね。でも、また戻ってきたらいいのかもしれない。また、途中からやり直して、小さな一歩を積み重ねればいいのかもしれない。

 

どこまで継続しても何物にもなれないかもしれないし、スポットライトあたらないかもしれないし、お役に立てないかもしれないし、すべての時間が無駄だと思えることもあるかもしれないけど、不安と漠然としたモヤモヤに苛まれてしまうこともあるのだけれど、継続は力になりえるのかもしれない。だから、続ける。これ大事。

 

みなさんはどの能力を武器に人生を戦いますか?私は継続する力と少しの真面目さで何とか社会を生き抜いていこうと思うのです。

 

仕事できるかどうかだけで人の価値や幸せは決まらない。

 


とにかく成功しなきゃいけないという謎のプレッシャー、謎の威圧感。普通ではダメか?年収何千万円も稼がないとダメなのか?人々に認められて、称賛される、そんな人生じゃなくてもいいんじゃないですかねえ。

 

一流企業に就職して、MBA取得して、留学して、同期の中では出世頭、仕事ができるやつと周囲から尊敬されなきゃなりませんかねえ。

 

そういう雰囲気を感じているのは自分だけですかね。そんな風潮というか価値観はなんかツライ。仕事での成功はもういいや。

 

仕事があって、食事と住むところに困らなくて、家族と一緒に暮らせる。これで十分すぎるほど幸せなはずなのに。なぜか、それ以上のものを求めてしまうのですね。

 

とりあえず、仕事に成功を求めることはやめた。自分にはビジネスマンとして成功する才能はそこまでないし、今はそこまでは求めていない。社会に出たばっかりのころは、とにかく成功しなきゃダメだ!失敗しちゃダメだ!という不安が強かった気がします。今は飯と住むところに困らなければいい。もちろん仕事は一生懸命やります。でも、仕事のために、休日や健康を犠牲にしたり、時間を投資するのは嫌なのです。ゴルフと飲み会を回避しても、いいのではないでしょうか。その変わりと家族や友人とともに過ごし時間を増やすべきだし。もちろん一人の時間を増やすのも大変有意義でしょう。

 

ビジネス書コーナー行くと、やたらと成功あおっている本が目につきます。そういうの面白いんだけど、読み過ぎると洗脳されて、頭がおかしゅうなります。読後は自分も成功者にならねば!と思うんですけど、実際は普通の会社員を脱出できない自分との、埋められない差に苦しむことになるのでは?

 

ビジネスの成功者を目指したい人は目指せばいいと思います、だからといって普通の会社員として「飯と住むところに困らない生活もよし!」とする価値観もまた否定されるべきものでもないのかと。一生フェラーリと都会のタワマンの最上階は手に入らないかもしれないけど、家族と一緒に週末に地方の映画館に行ってファミレスで外食する生活も幸せだと思うんですよ。後者が敗北だとは思わないですけどね。

 

台風被害のニュースを見てください。電気と水道が使えて、自宅で寝食できるのがいかに幸せか。ほんと災害や事件事故は少ないほうがいいです。キレイごとかもしれませんが、ニュースを見るたびに悲しい気持ちになります。普通の日々はめちゃめちゃ幸せですよ。仕事で成功できなくてもね。

 

人の評価は仕事ができるかできないかだけで、評価されるべきではないと思うのですよ。仕事できなくても、他人に優しい人は好きだし、尊敬できますし。仕事ができなくても、話がめちゃめちゃ面白い人や明るいひともいるだろうし。仕事ができなくても、料理とか家事が上手な人もいるでしょうしね。仕事だけで人を評価しちゃいけませんね。